春の味覚というか、匂いで一つ私が経験した思い出がある。
ある利用者がどういう訳か突然、全く食事が受け付けない。
あの手この手で食事介助や食事に工夫をしたが、老婆の口は開かないままだった。
半ば諦めつつまだ介護度がそんなに高くないその利用者とコミュニケーションをとろうとして会話を始めた。
まずは家族のことは差し障りがあるので、故郷の自慢話でも聞けるかなと思い、故郷のことを話題に振った。
三重県のご出身と聞き出した。
三重と言えばお伊勢さんの存在は大きいし、きっと三重県人は誇りに思っていることと思う。
昔懐かしいお伊勢さんの思い出はあとからあとから話題に事欠かない.
幼少時時代のいっぱい思いで詰まった土産話を私に聞かそうと必死となった。
お伊勢さんと言えば赤福土産が有名だが、春の今頃の味覚の思い出はないものでなかろうかと話題を振った。
真珠で有名な伊勢志摩の英虞湾の界隈の海岸にはあおさが春には取れるという。
その香しい磯の匂いはふと昔を思い出したのか思わず目を細めたのを見逃さなかった。
先週徳島に出張に行った折に鳴門わかめも春が旬だというのでいっぱい空港の土産コーナーに所狭しと並んでいた。
しかしあおさはなかなか採取できなく貴重らしく徳島ではなかった。
そこで自宅に戻って近くのデパートの地下食品売り場に出陣したら、あおさがあった。
そこに伊勢志摩産とあった。
これだと思った。
朝の味噌汁にアオサを入れて食欲を誘ったらどうであろうかと。
味噌汁は白みそが好きだという。白みそならあおさの匂いを損ねない。
元々味噌汁は以前はよく好んでいたことも幸いし、早速、翌朝に白みそにアオサをいれた味噌汁をこしらえた。
翌朝、配膳をした途端、彼女の顔が明らかにゆるんだのがわかった。
味噌汁の香りと共にアオサの磯の匂いが彼女を思いでの伊勢志摩にタイムスリップしたのであろうか。
あおさの入った強烈ともいえる磯の匂いを嗅ぎつつ、素直に口に味噌汁を運んだ。
あとから聞くと最近、故郷の伊勢の長年友達が亡くなったということだった。
友を失くした寂しさが食欲を失くしたことかと推察した。
その食欲を救ってくれたのが白みそとアオサの磯の香なのかもしれない。
香りは時を場所を一気に昔にタイムスリップすると想起効果があるという。
例のプルースト効果という奴だ。
利用者さんのバックグランドを知ることの大切さを改めて思い知った。