菊池雅洋さんの看取り介護の一日セミナーに参加した。
5時間座学のハードな一日であったが、その迫力と情熱に一日があっという間に過ぎてしまった。
私の介護アロマ講座の実技中心とは全く違い、座学だけのセミナーでこれほど飽きさせない豊富な経験談を交えての実践例は、私にとって、とてもエキサイティングであった。
看取り介護の死に場所は、自宅でなくっても住み慣れた施設でもいいという発想。つまり自宅にこだわる必要なしということを冒頭に強調していた。
私は居宅ケアマネージャーしているために、看取り介護は在宅と思い込んでいた認識不足を痛感した。
もっともっと終末期は多様な暮らしがあり、自宅でなくても住み慣れた地域施設があればそれもよしとする。
現在の制度改革している長期入院つまり社会的入院を改め、早期に退院させ在宅復帰するという国の方向性は在宅復帰は自宅ばかりでないということである。死に場所は病院でなくなり、死ぬためにだけ入院はしないというこれまでの国の政策の大きな方向転換である。
そのために「看取り介護」というテーマが浮上してきた。
菊池講師は措置の時代から看取り介護を心がけて実践してきたというから将来の踏まえて先取りしていた訳である。
その原点になる言葉をマザーテレサから以下、引用していた。
「人生の99%が不幸だとしても、最期の1%が幸せだとしたら、その人の人生は幸せなものに変わることでしょう」
セミナーの中で私が一番印象的だった言葉が、「看取り介護になっても延命治療は不要だが、緩和ケアは必要であり、手を握ることも緩和ケアだよ」といった発言である。
「手を握る」を菊池氏は5時間の講座で、数回訴えた。
医師も無力である自分を認めた時に手を握ってほしい。顔を出して声をかけてほしい。
これら行為は医師でなくてもできるが医師だからこそあえて実践行動してほしいと熱きエールを送る。
私が介護アロマ講座で手で触れる。それも「癒しの手」で触れることに重きを置いて講座をしていることに意味があると確信した。
そしてホスピスケアの祖シシリーサンダース女史の「not doing but being」という言葉が心に響いた。
誰でもいいから人は最期に傍に誰かがいてほしいという存在こそが安心・安楽をもたらし
1%の最期の幸せで人生の幕を下ろすという看取り介護に情熱を燃やす菊池講師に感銘した。
誰かでなく介護職員がその代弁となって傍らにいる存在価値のある人間であれば尚更いいと最後は施設長としての人事管理が顔を出した。部下に対する厳しい姿勢もその人らしくを観察する鋭い鳥の眼と蟻の眼の思いやりの気持ちを仕事の中で発揮することが福祉という仕事を通じて自己実現することと菊池氏自ら確信しているからであろう。